昭和42年8月6日 朝の御理解
昨日、ある方がお参りして見えて、息子さんの縁談の事でお伺いにこられたのです。折角、私ども信心をこうして一家あげてしているのでございますから、出来るなら、信心のある家庭から貰いたいと言うわけなんです。そういう話であるけれども、相手に信心がないと言わけなんです。したらですね、信心のここには沢山娘さんがおるから、ここのなかにおらんですか、と言うてから、ほんとに私はそう思うんですけれども、ということでございました。
そうしましたら、その話をしをりましたら、神様から私お知らせ頂きますとがね、人力にいっぱいの荷物をもう積みすさるぐらい積んであるね。昔人力車というのがございましたでしょう。その人力車に一杯荷物を積んで、その手元のほうが、こうひっくり返ってしまって、引いている人間があがってしまっている。後の荷物があんまり積んであるですから。 これは信心のある者が信心の家庭と縁組をしたいという願いが、誰でも一応もつ事だけれども、手がいらんからね。けれども又、新しい信心のない人との言わば縁組、縁組という事によって、お導きが出来るという事は、どこにどういうような縁が待ち構えているか分からない。どういう御神縁を受けていく事になってくるやら分からん。で私は申しました。只その縁談は進めなくてもいいです。現在先方は、まあいうならばバリバリやっておられるんですけれど、あんまりばりばりやっておられてです、もう人間の力、精一杯のことをやっておんなさるという感じがする。必ず手元がくるうて、ひっくり返る事がありますよ。その時こそ、もう相手のその娘さんだけではない。娘さんの里の一家中までお導き出来る絶好の私、機会、チャンスだと思いますから、まあ相手がひっくり返るのを待つというのもおかしいですけれども、そういう感じですね。今日私がお知らせを頂くのは、ということをお話させて頂いたのですけれどもね。
時に私は思うのです。人間の力というのはね、限りがある。それはもう、人がいてですね、人間の何と申しますかね。私達のようにその馬鹿の様にしていますとね、もう大体、力もございませんから、もう何もかも神様まかせ。ところが、その頭がいいばっかりに、気が利いておるばっかりに自分のその少しばかりの才気と申しますか、知力と申しますか、そういうものを使うところにどうしても人間心が出てくる。 なるほどちょっとは良いようですけれども、そういった事をするから必ずそれでは、おかげが頂かれない。人間の力でよし出来たところで、人間の力には限りがあるのですから。
信心さして頂く者は、どこまでもですね、無限の神力に委ねるというか、無限の神力を頂くという事。まあ言うならば、本当に神様をお現し申し上げるという事は、私どもがそうした無限の神力を分からして貰い、そして私どもがいよいよ無力である事を悟らしてもらい、そこに神様に委ねる。もうこれから、これだけの事は自分でして、これから先を神様にお願いする。神様にお手伝いしてもらうような感じ、神様に引っ張って貰って、自分が後押しをするのは良いけれども、自分が引っ張って行っておいて、神様から後押しをして貰うといったような程度の信心の人も沢山おります。これから、これまでの事はお任せ出来る。これから先の事は、お任せ出来ん。自分のよかごとする。これでは充分の神様をお現し申し上げることも、おかげを受けていく事も出来んと思うねですね。
昨日、伊万里の竹内先生方御一家で御礼に参拝して見えました。息子が東京の大学に行っておりますのが帰って参りましたから、その御礼に親子で五人で見えられました。この頃からの大水害でございましたから、その時の模様をおばあちゃんがお話しておられましたが、思われたちゆうですね。もう先生、私は思いました。この時こそ自分の頂く信心を現す時だと思った。新聞で見ますと、あの大坪町と松会町あの二つの町が一番酷かったんですね。そこでそのおばあちゃん、その時にですね。若い時に、こういうお説教の中にお話を頂いたことがあった。
やはり大水の話である、大水が段々入ってくる神様からその事をお知らせ頂かれたのにですからね。神様の部屋に蚊帳をひいて、そこで祈れということを頂かれた。それでその神様のお祭りをしてあるお座敷に、蚊帳をひいて一生懸命にお願いした。大水が入ってきたのに、蚊帳のひいてある所には大水が入らなかった。私もそういういいなさりゃ、その話はどこかで聞いたことがありますよ。やはりそうした大変な、奇跡的なおかげですから全国にやはり話があちらでも、こちらでもあったことででございましょう。私もその話を聞いた覚えがあります、昔。その事を思い出しました。
それで私は大水がどんどん入ってくるちゅうので、こしぬけに座って一生懸命ご祈念させて頂きました。あの時に青年会の方達が、いろんな御用に来ましてから……もう本当にお神様のお祭りしてある部屋と次の部屋は同じですけれども、次の部屋は畳をあげなんごとあるけれども、お神様の部屋だけは全然畳をあげずにすみました。もう信心のない者にとっては、もう本当と思いますまいけれども、私は自分の信心。私のために働いて下さる神様の働きというものを、知ったような気がしますと言うて、昨日おばあちゃんが話しておられました。
そんな、馬鹿なことがと、例えば信心のある者でも思うような事は、そういう事ではおかげは受けられないです。私は、こうして最近眼が悪い。だからその御神酒をさすんです。お医者さんはお医者さんの立場で、この御神酒はもう十七度からありますね。菊正宗の極上ですから。それでその大田先生、知っちゃるわけです。それで眼はどうでしょうかと。いえまだ痛みは止まりましたけれども、まだ相変わらず真っ赤にしておりますよ。先生どんなに考えてもですね、あの久富さんのあのーこうやって差してもらうのですね、休みがけに……あの久富さんの手は、牛蒡のごたる手で、不潔でいけません、と電話で言われるのですもん。脱脂綿かなんかで 。。するわけにはいかんのですか。だが第一その御神酒をね、眼にさされるということが、あのお神酒をいつも頂いておられるから知っておられるのです。言うなら最高の御神酒ですから十七度もあるとを、御神酒を眼にさして良かろうはずがありません。先生それは、あなたがお酒と思うとんなさるけんでしょうが、私は、御神酒を頂きよるとですけん、大丈夫ですが。いえ先生、いくらなんでも眼にさすのだけはいかんけん、こう塗るだけにして下さいと、電話で言って下さった。昨日、一昨日に泊まりがけで見えていましてから、私が依然として御神酒をさしているのでたまがってしあまっておられます。私は御神酒とお酒の違いをはっきり知っているから、出来るのですよ、ね。
これなんか所謂、無限の神様の働きというものを知らなければ、出来ることではありません。ですからお互いが神様の無限の働きというものを分かった、その無限の働きに委ねる。限りない神様の働きにです、だからそれを知っただけではいかん。
三代金光様が、私に下さっておられる御教えの中にもございます「氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになると仰せられますから」と仰る。ね、人間の力ではこれだけの事。けれどもどうでしょう、神様がです、言うなら、私まかせになって下さるというなら、どうでしょうか。現にこの御造営でもそうでしょうが。
先日もある中学の先生がここに参観に見えましてから、ただただたまがっておられる。第一各部屋部屋の趣味の良いのに、先生の御趣味でしょうと、こう言われる。造りがいいと言われる。なるほど私もさまざまな道楽をしておりすから、まあその趣味というものは、まあ言うなら感覚的に道楽しておらん者よりか少し優れているかも知れません。けれども、私どもくらいの感覚ではありませんものね。神様が下さるとは、調度品の一つでも、そうです、ね。所謂、神様がもう私の心の底まで見抜いてござる。そして所謂、私まかせになって下さる姿に、私がこうせないかん。こげんとを置かんと、言うのではなくてね。私が神様まかせになっていれば、いわゆる神様が私まかせになって下さる。
それを神様まかせにならずに、神様の方を自分まかせにしょうというような願いをしているから、けちいなものしか出来上がらん、ね。いかにも人間が智恵、力でこうやってしていますから、如何にも行き届いたごたるけれども、実際使ってみたら、どっこい使い勝手が悪い、例えてご普請なら、もうここの場合なんかはこれは大工がミスしているという所が沢山ありましたが、ミスしておる所がみんなそのミスんおおかげでという事になっとつとですからね。ですから本当に神様が私どもまかせになって下さるためにも、私どもが神様まかせにならせて頂くところの素直心をいよいよ高めていかなければいけません。ですからこれからこれまでの事は貴方にまかせ、これから以上の事はまかせられないというところにです、無限の神力に触れることは出来ません。
それから先の無限のものは、ここでなら神様まかせという事を親先生まかせと皆さんが言われるね。所謂、船は、櫓まかせ風まかせ、ね。任せるといったら本当に任せなきゃ。そこを任せきらない。それでは何時まで経っても、無限の神徳に触れることも出来なければ、無限の神様の働きを現すことも出来ない。そこをお願いする。お取り次を頂く。お願いをする。おかげを頂いた。その程度の事ならいいでしょう。ね、けれども、枯れた木に花の咲くような働き、言うならば夢にも思わなかったようなおかげという事にはなってこない。そこに信心さして頂いていましてもです、その人力の人間心ばっかりでありまい。神様に半分お願いしておりましてもです、それは半分。自分が主である。神様が従である。せめて、神様が主であり、私どもが従である立場にならして頂いたら有難い。
そこでですね、そういう、無限の神力をいよいよ現させて頂く一番その身近、手じかな、一つの方法とでも申しましょうか、あり方とでも言おうか。それは言わば私は、神様まかせと言うことを申しましたが、神様まかせという事は、本当に神様の働きをある意味合いにおいて、知らなければ、把握しなければ任せられるものではありません。
貴方にお任せするというたら、貴方を信用しているから任せられるのであって、ですからこれはやはり、ちとむつかしい。信心の稽古がある意味で進まなければ任せることは出来ません。私は親先生任せになっていますけ、と言うのは、あまりにもこれは安易な考え方だと思うすね。本当に神様任せに出来るところまでお互いの信心を高めていかなければ、信心とは信じる心と仰る。その信ずる心をいよいよ頂かなければいけない。
だから、そこまでの過程の信心としてですね、どう言う事であるかというと、教祖の神様が仰っておられますね。木の切り株に腰をおろしても、立つときには礼を言うような心持ちになれよ、とこの心持ちをですね。始終持つことだと思うです。自分の都合のよか時だけは有難うございます、自分の都合の悪かときは、おかげ頂きらじゃった。ね、そのおかげを自分の思うように成らなかった時でもです、ね、所謂、木の切り株に腰をおろしても立つときに礼を言う心持ちですから、そういう心持ち、そういう心持ちが必要なのです。これはもう一日四六時中そうなのです。
おかげを頂かして貰うて、もう一つその、この事には御礼が言えるけれども、この事には御礼が言えない事もありますけれども、それでもですね、やはり御礼の言う稽古をせんといけん。そして分かってくる。お礼申し上げる事であった、と言うことがね。
腹の立つような場合でも、情けない思いをするような場合でも、私、神様に御礼申し上げる心持ちが必要。ところが神様そういう心持ちは持っておりますけれども、この問題だけはどうしても神様にお礼申し上げる気持ちが起りません。どうぞ私のこの心を本当のことを分からせて下さって、この心持ちを御礼を申し上げる心持ちにならせて下されーと願うことが、おかげは和賀心にあり今月今日で頼めい、と仰るそのことなんです、ね。一日中はあ、おかげ頂いたと、素晴らしいタイミングのお繰り合わせ頂きますと誰だっておかげ頂きたいと思うしお礼申し上げます。ところが、互い違いになる、ね。どうしたこっちゃろうかと。どうしたこっちゃろうかと言う前にです、ね、この事に対しても御礼の言える私にならせて下さいという願いがいる。そういう信心がくり返さなければなりません。
生神金光大神 天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり。私どもが一心に願わなければならない時にはです、ね、おかげを頂いて有難いと御礼を言う時はもう和賀心なのです。ではない時、不平の出るような時にです、腹の立つような時にですね、不平を言う前に、腹を立てる前に御礼を申し上げなければならないのは、お話を聞けば分かってはいるのだけれども、腹が立って仕方がありません。情けなくて仕方がございません。どうぞここの所を御礼を申し上げる心を私に与えて下さい、頂かせて下さいと願う心。それが今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり。一心に頼む事はそこなのです。
そうして行くうちにです、成る程、どの様な場合でも御神意の現れであることが段々分かってきて、どの様な場合でもおかげ頂いて有難い。かもいで頭を打たせて頂いても、有難うございますが言えるのです。小石で足を躓いても有難うございますと御礼が言えるのである。そういうです、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には、礼を言う心持ち。そういう心持ちが出来てくるところにです、神様の働きを身近に頂くことが出来るようになる。
そこから私はいよいよ神様任せにならせて頂く稽古がなされなければ、それでもやはり、稽古が必要だ。たいがいの事はもう九分九厘は、お任せ出来るけれども、あとの一分だけはお任せが出来ぬという様な事もある。そこに修行が必要なのです。それから先が有難い、ね。もうそこには、我というものがない。私というものがない。いよいよ障子一重がままならぬという自覚が出来る。私では何にも出来ぬ私だから、神様貴方にお任せするよりございません。貴方にお縋りするより外にありませんという事になってくるね。そこで始めて、障子一重がままならぬ人の身という自覚が出来る。私では何にも出来ん私なのだから、神様あなた、お任せするよりほかありません、あなたに縋る他にはありませんということになってくる。ね、そこではじめて障子一重がままならぬという自覚が出来てくる。ここ一寸動くでも貴方のおかげを頂かなければ動けるだんじゃないという事が分かってくるね。ここのところがです、どういう事かと言うと、神様に所謂もう没入しておる。神様と一つになっておる。任せきっておる時、そこから頂けるおかげがです、無限の神力。限りのない神様の働きを、そこに見る事が出来る。
久留米の初代が「この世は徳の船に乗って渡れ」と仰った。それから先の事、始めから徳の船に乗るわけにはいかん。話を聞かして頂けば頂くほどです、一切が神愛の現れであるということが分かってくる。それを実感を持って分からしてもらうために、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には、礼を言う心持ちになる稽古を一生懸命するね。そういう心持ちが出来る。心がところが反対に腹が立つ、反対に情けい。そこのところを一心に頼め。おかげは和賀心にありと仰るのですから、そこの所を分かっておりますけれども心の中に和賀心と反対の心がありから、そこの所をお願いしていく。そしてその事が有難いということが、和賀心で受けられる心が開ける、ね。そこの所を繰り返し繰り返し稽古さして頂くうちにです、いよいよ無限の神力に触れていくことの出来るおかげになってくる。
そして自分の無力さかげんというものが分かってくる。自分に力がないことが分かってくる。自分の力のないことが分かってくるところに、無限の神力というものがはっきりしてくる。神様をお現し申し上げるという事は、そういう事だと思う。
信心しておっても、神様のおかげを神様にお願いしておっても、自分で一生懸命、人力を引っ張っている事がなかろうか。まだ荷が軽いから引っ張っておられるのです、ね。この荷がいよいよ重くなってきたら、それこそひっくり返らなければ出来ません。信心しておっても。ひっくり返る前にです、今日私が申しましたところを、実行さしてもらうとです、木の切り株に腰を下ろしても立つ時に礼を言う心持ちが育ってくるのです。そこには必ず神様を身近にですね、分からしてもらえる、お繰り合わせを必ず頂ける。一切の上にお礼申し上げる状態になってくる。
そこから私は、氏子が神様まかせなら、と仰る。神様が氏子まかせになると仰せられますからと仰るその神様が私どもまかせになって働いて下さるような、おかげが開けてくるのです。その時こそがです、人が眼を見張るようなおかげ。だからそういうおかげを本当に頂かせて貰うという事はです、第一神様が喜びなのです。氏子信心しておかげ受けてくれよと仰るのは、そういうおかげを受けてくれよという事なのです。
只お取り次を頂いて商売が繁盛しました。お取り次頂いて病気が治りました。これだけで神様が喜びなさるはずがない。まあそれが信心の序の口、入り口でありますから、もうまんざらでもありますまいけれども、神様が本当に喜んで下さるのは、神の働きを十二分に現していけれるおかげを受けた時なのです。
信心しておかげを受けてくれよと、仰るのはそういうおかげを受けてくれよなんです。そういうおかげを頂けることをお互いが楽しみに、そういうおかげを受けられることを確信して、そして一歩一歩今月今日を私は一心頼まして貰うことは、自分の心の中に頂くところの和賀心。おかげを頂いたのが有難い。自分の思いの叶った時だけが有難いのでなくて、それと反対の中にあってもです、お礼申し上げるよりない。そこの所を有難くお礼申し上げる心にならして下さいと祈っていくのです、ね。もう絶対なんです。そこの所を本気で稽古させてもらわなければいけないですね。どうぞ。